Middle Ground Fallacy(両極論の中間地点が正しいわけではない)

内田舞氏の『ソーシャルジャスティス(小児精神科医、社会を診る)』を読んでいる。まだ読み始めたばかりだが、こんな言葉が出てきた。

彼女はアメリカで暮らしていて、小児精精神科医であり大学でも教えている。これまでのコロナのなかでのワクチンについて日本のマスコミなどにもコメントしてきた。そのなのかで感じたこととして、ワクチンについて、賛成派と反対派が番組に登場して話し合うテレビ番組を指摘している。

日本のテレビ番組のやりそうなことである。

これで思い出したが、厚生労働省の内閣参謀の職員と話したことがある。乳幼児は里親の手で養育すべきだと話していたら、しかし乳児院の必要をいう論文もあるからね、と。私はその時、追及はしなかったが、そういう論文があったって関係ないだろうと思っていた。

私は仕事の関係で労働省時代の審議会にも出ていたことがある。結論の出にくい問題に、労使が委員となって、中間結論を探すのだ。しかし科学的な問題に結論を出すとき、中間結論でシャンシャンというのはおかしな話だ。

が、日本で物事を決める際には、中間地点を探そうとすることが多い。テレビ番組などでも、科学的には結論が出ていることでも、あえて反対派や意見の異なる人の話を聞こうとする。

保護を必要とする子どもたちについても、施設ではなくて家庭がよい。そんなことは分かっているのに、なかなか結論を出さない社会や政治の仕組みがある。