子どもの権利が社会的養護の世界でも大きな関心事になっている。改正された児童福祉法第1条に、国連子どもの権利条約を基本にする、とうたわれたからだ。
子どもの権利は当然ながら子どもに帰結する。親や里親や、児童相談所職員が、いくら子どものためと思っても、子どもの声を第一とすべきだ。
アドボカシー活動では、子どもの権利条約に書いていることが優先すると思いがちだが、条約に反することでも、子どもが言っているのならアドボカシー活動では第一にしなければならない。
けっこう話題になっているが、近所の書店になく未読だが、李琴峰さんの『生を祝う』が話題になっている。近未来の話。産むか産まないか、その決定をするのは胎児にある、ということらしい。人から命を奪うのは殺人だが、妊娠した(生命を宿した)場合、出生強制するのもダメ。
今の社会的養護の世界の混乱が透けて見える。当事者である子どもに主権があるのだが、そこまでの考えが体制の中にない。良かれと思ってやっていることが実は迷惑だと言うことは枚挙にいとまがない。子どものことは子どもに聞け、ということになるが、妊娠した場合の決定を当事者に聞くことができない。
芥川龍之介の『河童』も生まれたいかそうでないか胎児に聞く話だったように思うが、権利の視点から李さんは書いている。権利の問題はどこまで掘り下げられるのやら。