子どもと大人

新型コロナで緊急事態宣言。それでも、家にいるだけだとうつうつとしてくるので、江戸川沿いを散歩する。雑草のように菜の花が咲いていた。
立ち止まって眺めているうちに、菜の花は一年生草花だと思いだした。正確には越年をしているから二年生草花なのだが、一回きりで枯れてしまう。
多年生草花が戦略として一年生草花になったと昔、習った。そんな命の選び方があるのだろうか。一個の命として、長く生きようとするのが命ではないか。命は一回性のものだ。ところが、種としての命、という考え方がある。というより、あるのだろうか。植物にはあったとしても、動物では不可能だろうな、と思うが、待てよ、とも思う。人間以外の動物は、子どもが独り立ちする頃に寿命を終える。子どもと親が食料をめぐって争わないように、だ。そうやって考えていくと、動物にも種としての命があるのだろうか。

2月末に開催されたFLECフォーラムで、共同代表の潮谷義子さん(前熊本県知事・慈愛園理事長)が、私たち大人は子どもたちのために存在する、みたいな挨拶をした。大人として存在するのではなく子どもたちのために存在する、と。言い回しとして面白いな、と思ったが、じわじわと気持ちの面積を占めつつある。

人間は、種としての命を大切にしていないな、とおもう。一回性の命に拘泥する人間よりも、命の体をなしていない、種として繁殖するウイルスの方が偉いのかも知れない、と、まあ、里親とは関係のない随想である。