『虔十公園林』(宮沢賢治)を読む

宮沢賢治の短編童話『虔十公園林』を読んだ。あらすじはこんな感じ。


虔十(けんじゅう)は笑うのが好きだがみんなにばかにされるので、笑わないようになった。あるとき、野原に植えるので杉苗700本を買ってくれと母に頼む。兄は、あそこに植えても大きくならないと反対するが、父は虔十がお願いごとをするのは初めてなので、買ってやれという。植える穴を掘っていると、隣に土地をもっている平二が自分の畑が日陰になるといって反対する。兄が出ていくと平二はぶつぶつ言いながら行ってしまう。
そこは粘土質だから杉が育つわけはない、ばかはばかだ、とみんなが言う。7,8年たっても9尺くらい。ひとりの百姓が下枝を払ったらいいと言うので、下枝を払う。払うと小さな林はあかるくがらんとなった。次の日、大きな声がするので虔十は驚いた。子どもたちが行進したりして杉の木の下で遊んでいる。虔十も平二もチブスにかかって死んでしまう。
次の年に村に鉄道が通って、工場などができた。しかし虔十の林だけは残っていて、子どもの遊び場になっていた。
もう死んでから20年にもなる。その村から出て行って、アメリカの大学の教授になった若者が帰ってきた。周りは変わってしまったのに、虔十の林だけは変わらず子どもの遊び場だった。「その虔十という人はすこしたりないと私らは思っていたのです。いつでもはあはあわらっている人でした。毎日ちょうどこのへんに立ってわたしらの遊ぶのを見ていたのです。この杉もみんなその人が植えたそうです。ああまったくだれがかしこくてだれがかしこくないかはわかりません。ただどこまでも十力の作用はふしぎです」。
そういって、ここを虔十公園林と名付けたといいます。

賢治は賢という自分の名前があまり好きではなかったようです。虔は敬虔の虔。へりくだるということでしょうか。そして、十は十力の十。十力は仏だけがもつ智力のこと。虔十を後の人が「ああまったくだれがかしこくてだれがかしこくないかはわかりません」とつぶやく。
私たちの子育ての心構えもこのようでありたいものです。