「健常」が「障害」になっている

今日の朝日の一面、稲垣えみ子さんの言葉として紹介している。

言い得て妙だ。たとえば老いてできないことばかりになる、しかしそれではじめてできることもある、と。

目線の高さの問題なのだろう。里親家庭で暮らす子どもだってそうだ。

学生の頃に『マチウ書試論』を読んだことを思いだす。論理的な、正しいか間違いかではなく関係の在り方がものごとを決定する。いわば関係の絶対性。右の頬を打たれたら左の頬を出せ、というとき、吉本隆明はそこにキリスト教の出自、虐げられたイエスだから言えたことだと解釈する。

「健常」が「障害」になっている、かぁ。