新聞をゆっくり読みながら里親を思う

のんびりと起きだして、今日の朝日新聞をゆっくりと読む。歌壇という欄がある。目についたのは「憶良おらば何と詠みけん宝なる子ら虐待に死にゆく今を」。以前、里親を対象に川柳を公募する企画があった。私は賛成できなかった。子育てを揶揄するような作品をみたくなかったからだ。しかし、こういう歌ならいい。「もりかけも桜も説明しないまま辞めていくのね病気とはいえ」「また今日もソーシャルディスタンスと言うの? 感染防止距離と言わずに」「虫の来ないLEDの明かりとは光であって灯りではなし」。歌は社会時評として素晴らしいと思った。こんなのもある。「『封じ手』を立会人に手渡して深く礼する所作の美し」棋士の礼節を称える歌である。

「日曜に想う」の欄には抗議のマスクの記事があった。こちらは藤井棋士ではなく大阪なおみのテニス全米オープンでの7枚の黒いマスク。その行為から「日曜に想う」の記者は、川崎さんの詩を思いだす。

 「二人死亡」と言うな

 太郎と花子が死んだ と言え

かけがえのない「存在」を数字のなかに置き去りにするな、という詩句である。そこから記者は、「あなたの身に起こっていないからといって、それが起きていないということにはなりません」というツイッターの言葉を紹介する。他者の苦難への無知や無関心を指摘する。

記者はスーザン・ソンタグの「他者の苦痛へのまなざし」からの一文も紹介する。「彼らの苦しみが存在するその同じ地図の上にわれわれの特権が存在し、或る人々の富が他の人々の貧困を意味しているように、われわれの特権が彼らの苦しみに関連しているのかも知れない」。ソンタグは、同情は無責任だという。

文章の最後に、大阪なおみさんの勇気ある行動にフランスの反戦哲学者、アランの言葉を紹介している。「君が他人の始めるのを待つ限り、誰も始めはしないだろう」。

さて、これらの一文が里親ということに大きく反響してくることになる。命を落としかねない逆境で暮らしている子どもに、私たちはどうすべきか、なにをすべきか。日頃、里親の労働者性について言及したりしてきた。しかし、理屈ではなくて、「胸の小槌に従」うことではないか。思えば井上光晴の詩集に『胸の小槌に従え』がある。内容は忘れてしまったが、いいタイトルだと思う。

新聞の隅に、こうした思いを逆なでするような記事もあった。杉田衆院議員が女性への性犯罪に絡んで「女性はいくらでもウソをつける」と発言した、という記事。